石橋の手帖

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2022年11月9日(水)

    『裕福ではなかったから・・・』

    僕は5人兄弟の末っ子でした。
    一番上の姉とは12歳年が離れています。
     
    小学生の頃には、5人の兄弟に両親とおじいちゃんと、最大8人が小さな小さな家に身を寄せ合って住んでいました。
    実家は、下町の日本橋人形町。
    当時はまだ芸子さんが歩いていたくらいです。
    裏の料亭からは三味線の音が聞こえてきました。
    料亭で修行する料理人さんも多く見えて、道路に並んで包丁を研いだり、鰹節を削ったりしていた光景は強く印象的に残っています。
    このように書くと風情がありそうですが、実際には住んでいると、そうでもありませんでしたね。
    それが当たり前の光景でした。
     
    兄弟が5人もおり、姉たちは私立の中高一貫校に通っていたこともあってか、決して裕福な家庭ではありませんでした。
    僕は兄の服のお下がりしか着たことはなかったです。
    当時の稼業は八百屋さんでした。おじいちゃんが懸命に働く人で、朝から晩まで仕事をしていたと聞いています。
    僕は、まだ幼く、働いているおじいちゃんのコトは思い出せません。
    細かく、口うるさいおじいちゃんの印象ですが、なぜか好きでした。
    ある時、姉に来た年賀状の字が汚い。と、姉がこっ酷く叱られていました。
    理不尽極まりないことですが、これが日常だったような気がします。
    とにかく、賑やかでした。
    父の時代になり、八百屋からパン屋へ業態を変えました。
    これは、父は朝が弱いので、八百屋は無理。という事だったらしいです。
    しかし・・・パン屋も朝が早い・・・というオチがついています。
    今になれば、なんでわからんかったんやろ?と思うこともありますが、恐らく、八百屋の限界を感じていたのかもしれません。
    パン屋はとても繁盛をしました。
     
    みんなで布団を並べて何本もの川が流れながら寝ていました。
    今になれば、いい思い出です。
    多分8帖間に4人かな?
     
    商売の厳しさも幼い頃に知りました。
    食パンの袋に小銭を詰めて、近くの信用金庫の裏口へ持って行くことは日常でした。
    裏口なのは、すでに3時で表口は締まっており、大抵は5時近くに持って行っていたからです。
    そこになんの疑問もありませんでした。
    教わったわけではありませんが、この小銭を信用金庫に届けないと大変なことになる。
    という言ことは察していたように思います。
    それでも、両親は裕福ではない。という風には、私に思わせなかったんだろうと思います。
    十分に幸せでしたし、おおらかでした。過不足なし。
     
    姉たちが高校を卒業し(大学を諦め)、就職するようになり、少しづつ余裕が生まれてきました。
    高校の頃だったか、初めての家族旅行へ行けたほどです。
    本当に楽しかった思い出です。
     
    僕が経営者として「家づくりはしない。心豊かな人生をつくる」と、心に決めた理由は、そんなバックボーンがあってのことです。
    我が家は敷地10坪にも満たない小さな小さな家でした。
    しかし、心豊かに育てられました。
    むしろ、その豊かさは、小さな家だったからこそ、家族の距離が近く、すべてが一体化していたからだったように思います。
     
    家族が近くにいて、両親が毎日必死に働く姿を見て、その上で、愛情をこめて育ててもらった。
    心豊かな人生をつくる。
    それは、家族との距離感だったり、自然だったり、働く大人の姿の中にあるような気がしています。
    そこには、「情緒」が必要です。
    ○か×か、好きか嫌いか、0か100か、といった合理的なコトではなく、あいまいで、おおらかで、適当な感じです。
    △があって良い。
    65点があって良い。
    中途半端がまた素敵。
    人間関係がまさにそうであるように。
     
    僕は、そこに住む人の心が豊かになるように、建築という手段でデザインをしていきたいと思っています。
     
    家はつくらない。
    心豊かな人生をつくる。

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